公開: 2024年2月25日
更新: 2024年2月25日
中国東北部で、日本の陸軍と中国軍が戦っていた1930年代の末、日本陸軍が実質的に統治していた満州国と、ソ連が支援していたモンゴル人民共和国との間で、その境界線をめぐって、継続的に国境をめぐる紛争が続きました。1939年5月、モンゴル軍と満州軍との間に発生した交戦は、大日本帝国陸軍とソ連軍の武力衝突に拡大しました。戦争開始直後は、日本国軍は航空戦力では、航空機が少なかったにもかかわらず、優勢に戦いました。しかし、地上戦では戦車の数や大砲の数で圧倒され、日本軍は敗退することになりました。
この戦いは、第1次世界大戦後、日本陸軍が初めて経験することになった近代戦で、戦車や大砲などの兵器の重要性を認識することになりました。特に、この戦いの後半、7月から9月の戦いでは、航空兵力、地上戦の戦車・大砲・弾薬の量など、ソ連軍の圧倒的な戦力に対して、歩兵を中心とした日本軍との兵力との差は大きく、最終的に日本軍は大きな打撃を被りました。しかし、この作戦を主導した関東軍参謀本部の責任者に対して、日本政府も軍も正式な処分を行わず、うやむやな解決を図りました。現地の指揮官らは、戦死、または自決を迫られ、兵の多くは、その後、南方戦線へ送られ、戦死しました。
この戦いの最中に、モスクワからハルピンまで、列車で東京に向かっていた日本のモスクワ駐在武官は、シベリア鉄道での移動中に膨大な量の戦車と大砲が列車によって輸送されていたことを目撃し、東京に戻り、そのことを報告しましたが、関東軍の参謀は、その報告を無視して、無謀にも後半の戦いを開始しました。日本軍の兵士たちは、モンゴルの平原に穴を掘り、瓶にガソリンを詰めた火炎瓶を抱いてこもり、戦車の通過を待って穴を抜け出し、戦車に火炎瓶を投げつけて戦ったそうです。そのようにして、ほとんどの兵士が自爆攻撃で、戦死したと言われています。結局、日本軍は、何も得ずに、ソ連側が主張した国境線を受入れ、停戦しました。